いやあ、帰国して1週間経ってもいまだあの街並みが恋しくなり、ウディ・アレンの『マンハッタン』なんかを観てます。
というわけではい、前回、前々回に続きまたまたニューヨークについてです。
ニューヨークに着いた時、初めてなのに「ああ懐かしいこの空気」と感じたんですね。
これはイギリスを旅行した時にも感じたんですが、子どもの頃オーストラリアに住んでたこともあってか、英語圏の国に共通して流れる空気、あるいは道路とか店構えとかの街のつくりがどこか心地よいのかもしれない。
滞在中、夜は観劇と決まっていたので、それ以外の時間は地下鉄、バスなど駆使してとにかくあちこち行きました。
マンハッタン内はもちろん、
ブルックリンや
クイーンズに行ったり、
ルーズベルト島やスタテン島にも足を運んだけど特にやることもなくすぐ戻ってきたり。
その割に自由の女神は遠目で見ただけで済ませてたりするんですが。
それができたのもSIMフリーのスマホがありGoogleMapが使えたからこそ。でなきゃ絶対にあれほど廻れてませんでした。
おかげで10日間でニューヨークの概要みたいなものはほぼ押さえられたかな、と思ってるんですが。
そうして感じたのは、世界に名だたるメガシティにも関わらず、とても人間的な都市だなあ、ということでした。
で、それはこの街に不便で不合理なところが多いからじゃないかと思ったんですね。
たとえば市民の足である地下鉄ひとつとっても、ダイヤの乱れは当たり前(そもそもちゃんとしたダイヤが存在するのか?)、案内表示も極めて不親切だし、設備はオンボロ、いや、かなり古くなってます。
構内や車内のアナウンスはスピーカーの音が割れて聞き取れなかったり。
待っている電車の到着がいつになるのか、いまホームに入ってきた電車が何線で、各停か快速か、そうカンタンにはわからない(僕が旅行者だからというわけではなく)。
そうすると人々は、助け合うと言うと大げさですが、自分達で何とか情報を得ないといけなくなります。
そこで、やってきた電車の車掌さんに聞いたり(これまた構内に駅員がいないんですな)、ほかの乗客に聞いたりします。
しかも人種のるつぼですから、あなたが尋ねる、あるいは尋ねられる相手は民族も文化も、下手したら言語も全く異なる他者なわけで。
それゆえ不快な思いをすることも少なくないでしょうし、衝突することも大いにあり得ます。
実際、街中で何かしら口論をしてる人たちというのは珍しくありません。
それでも何とか対話する努力をしないとならない。黙って待ってても結構どうにもならなかったりしますから。
僕も道を尋ねられたり、地下鉄で「これは何線か、この駅には停まるのか」など何度か聞かれました。分かってる限りは答えてあげました。あまり旅行者には見えなかったようです。
こんな具合に、たくさんの人が集う大都市でありながら不便で不合理で不確定性が多いからこそ対話を余儀なくされ、そうして機能しているのがニューヨークではないかと思ったのです。
で、ちょっと理屈は飛びますが、そういう土壌であるがゆえに、岡田光世さんがエッセイに書いておられるように、見知らぬ人との思いがけない出会いも生まれやすい街になっているのだろうと思います(もちろん岡田さんの積極性は特別ですが)。
それに比べたら東京は、交通機関もお店もレストランもはるかに便利で効率的ですし、そのサービスはマニュアル化されているので大した問題も起きず、快適です(だからニューヨーカーが日本の電車を利用したら間違いなくWow...と嘆息するだろうと思います)。
ですが、それゆえに失いがちなものもあるなとはっきり気付きました。
そして自分は、不便さはあるけれど人間的なニューヨークの街が性に合ってるのかもしれないな、と思ったのでした。おしまい。
というわけではい、前回、前々回に続きまたまたニューヨークについてです。
ニューヨークに着いた時、初めてなのに「ああ懐かしいこの空気」と感じたんですね。
これはイギリスを旅行した時にも感じたんですが、子どもの頃オーストラリアに住んでたこともあってか、英語圏の国に共通して流れる空気、あるいは道路とか店構えとかの街のつくりがどこか心地よいのかもしれない。
滞在中、夜は観劇と決まっていたので、それ以外の時間は地下鉄、バスなど駆使してとにかくあちこち行きました。
マンハッタン内はもちろん、
ブルックリンや
クイーンズに行ったり、
ルーズベルト島やスタテン島にも足を運んだけど特にやることもなくすぐ戻ってきたり。
その割に自由の女神は遠目で見ただけで済ませてたりするんですが。
それができたのもSIMフリーのスマホがありGoogleMapが使えたからこそ。でなきゃ絶対にあれほど廻れてませんでした。
おかげで10日間でニューヨークの概要みたいなものはほぼ押さえられたかな、と思ってるんですが。
そうして感じたのは、世界に名だたるメガシティにも関わらず、とても人間的な都市だなあ、ということでした。
で、それはこの街に不便で不合理なところが多いからじゃないかと思ったんですね。
たとえば市民の足である地下鉄ひとつとっても、ダイヤの乱れは当たり前(そもそもちゃんとしたダイヤが存在するのか?)、案内表示も極めて不親切だし、設備はオンボロ、いや、かなり古くなってます。
構内や車内のアナウンスはスピーカーの音が割れて聞き取れなかったり。
待っている電車の到着がいつになるのか、いまホームに入ってきた電車が何線で、各停か快速か、そうカンタンにはわからない(僕が旅行者だからというわけではなく)。
そうすると人々は、助け合うと言うと大げさですが、自分達で何とか情報を得ないといけなくなります。
そこで、やってきた電車の車掌さんに聞いたり(これまた構内に駅員がいないんですな)、ほかの乗客に聞いたりします。
しかも人種のるつぼですから、あなたが尋ねる、あるいは尋ねられる相手は民族も文化も、下手したら言語も全く異なる他者なわけで。
それゆえ不快な思いをすることも少なくないでしょうし、衝突することも大いにあり得ます。
実際、街中で何かしら口論をしてる人たちというのは珍しくありません。
それでも何とか対話する努力をしないとならない。黙って待ってても結構どうにもならなかったりしますから。
僕も道を尋ねられたり、地下鉄で「これは何線か、この駅には停まるのか」など何度か聞かれました。分かってる限りは答えてあげました。あまり旅行者には見えなかったようです。
こんな具合に、たくさんの人が集う大都市でありながら不便で不合理で不確定性が多いからこそ対話を余儀なくされ、そうして機能しているのがニューヨークではないかと思ったのです。
で、ちょっと理屈は飛びますが、そういう土壌であるがゆえに、岡田光世さんがエッセイに書いておられるように、見知らぬ人との思いがけない出会いも生まれやすい街になっているのだろうと思います(もちろん岡田さんの積極性は特別ですが)。
それに比べたら東京は、交通機関もお店もレストランもはるかに便利で効率的ですし、そのサービスはマニュアル化されているので大した問題も起きず、快適です(だからニューヨーカーが日本の電車を利用したら間違いなくWow...と嘆息するだろうと思います)。
ですが、それゆえに失いがちなものもあるなとはっきり気付きました。
そして自分は、不便さはあるけれど人間的なニューヨークの街が性に合ってるのかもしれないな、と思ったのでした。おしまい。