ちょっと待った!は通用しない 〜神保良介Blog〜

役者・神保が身のまわりのことやら自分に起こったことやら考えていることなどを書き綴った、その記録。

2007年03月

BS2が「アクターズ・スタジオ・インタビュー」でダスティン・ホフマンとアル・パチーノの回を放送。待ってました。

演じずにはいられないから演じるのであって、それは、仕事にありつけるか、成功できるかどうかということとはまた別の問題だ、といった意味の発言を、ふたりともしていたのが特に印象に残った。
駆け出しの無名の役者である自分がそういった演技することへの強い衝動を抱いていることはそう珍しいことじゃないと思う。
だが、ホフマン、パチーノともに、俳優としてのあれだけのキャリア、地位を築いてもなお、演じることへの情熱、そして演劇に対する強い愛情を持ち続けている。そのことに感動するし、なぜか嬉しく思う。

もちろん番組は録画した。何度も繰り返し見返すだろう。
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以前、山下敦弘監督のワークショップに参加したことがある。作品を創ることの面白さ、演技することの純粋な楽しさを久々に感じることのできた経験だった。
まずは役者に自由にやらせて、そこに監督がちょっとした仕草などをプラスするというやり方で、その「ちょっとした」が入ることでぐんと演技が可笑しくなる。たまに監督が自らちょっと演じてみせてくれる芝居が、何とも言えずどんぴしゃの表情と動きで面白い。

山下監督の作品には、滑稽でどこか悲しい、ダメな感じの人たちが登場する。そこには、ダメ人間たちを描く監督の、彼らを愛おしむような目線が感じられる。
公開中の『松ヶ根乱射事件』も、ダメ人間たちが登場する映画で、ダークコメディとして描かれているけど、その背景には地方の町の持つ閉鎖性と将来への決して明るくはないだろう見通しが感じられて、緩くのどかに流れる時間の中でじわじわと高まり続けるテンションは一歩間違えれば狂気にもなり得る危うさを持ち、シリアスドラマのようでもあった。
マーティン・スコセッシ監督『タクシードライバー』はダメ人間を描いた最高の映画だ、と言っていた山下監督のことばを思い出した。

ところで僕が過去に演じて特に周囲に褒められたのは、どちらかというとダメな感じのする役であった。僕はダメな感じの人に対して、別に愛おしい感情を抱いたりはしないが、共感し、理解する気持ちはあるのかもしれない。
『松ヶ根〜』には、ニナガワ・スタジオ先輩の岡田正さんも出演していた。羨ましい。
僕もまたいつか山下監督独特の、あの作品世界の住人として生きたい。次の時はちゃんとした劇場公開映画でね。
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芝居もよく観るが映画もよく観る。映画館でも自宅でも。
ことばが直接理解できるから日本語か英語の作品を観ることが多いが、面白そうな映画、クオリティの高そうな映画であれば、製作国やジャンルを問わず、何でも観る。
好きな映画はたくさんあるが、好きなジャンルみたいなものは特になく、傾向もバラバラ。
そんな僕が好きな映画の系統のひとつに、「よくしゃべっている映画」というのがある。

たとえば、ウディ・アレン監督作品にはよくしゃべる人物がよく登場する(アレン本人がそういう役を演じることが多い)。クエンティン・タランティーノ監督作品の登場人物も、まあしゃべって、しゃべって、しゃべくり倒している。
ロマンス映画での僕の一番のお気に入りは、リチャード・リンクレイター監督『恋人までの距離』とその続編『ビフォア・サンセット』だが、これもとにかく男女二人がずっとしゃべっている作品である。

しかし、よく喋れば何でもよいということではなくて、台詞や会話のやりとりが面白いもの、テンポ、スピードが小気味よいものでなければならない。早口も好き。
その点、上に挙げた作品群は、どれも台詞がいいし、俳優も見事にしゃべりこなしていてほれぼれする。
とどのつまり、僕はしゃべり言葉にとても興味がある人間なのだ。
これは最近に始まったことではなくて、子どもの頃には、落語名作集をよく読み、『男はつらいよ』シリーズでの渥美清さんの語り口調や啖呵売が大好きで、早口言葉では校内で右に出るものはいなかった。これまたちょっとヘンな子である。

演劇にも興味を持ったのも、こういう子どものときからの興味にちょっと関係しているのかもしれない。芝居は基本的には会話で展開していくから、そういう点ではもってこいなわけだ。
そういや舞台を映画化した作品も、当たり前だが、よくしゃべっている。

あ、もちろん、喋ってばかりの映画だけが好きなわけではなく、静けさや、風景描写、ちょっとした仕草が雄弁に物語っているような映画も好みである。
そんな僕本人はあんまりおしゃべりではないんだけど。
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先日、芝居を2本続けて観た。
もともとは1本芝居を観る予定だったのが、チェックしておきたかった別の芝居が、その日で千秋楽だとわかった。上演時間と移動時間を調べたら、14時開演の芝居を観終わってすぐ移動すれば、17時開演のもう一方の芝居に間に合うことがわかったので、劇場をハシゴすることになったのだ。

ところで、以前、イギリスにひとり旅したことがある。目的は観劇。
滞在中は、できる限りたくさんの芝居を観ることが最優先で、空いた時間にぶらぶら観光するという毎日を過ごした(イギリスには前に家族旅行で来ていたので観光にはあまり興味がなかった)。
旅の初日は、昼ごろ空港に到着、地下鉄を乗り継ぎ、道に迷いながらも予約した宿を何とか探し当てチェックイン、早速ウェストエンドへ向かい、ネットで予約しておいた芝居の夜公演を観る、という一日だった。初めてのひとり旅で、着いたその日からこんなスケジュールを組んでいたのだから、ちょっとヘンな奴である。
ロンドンに約10日間、地方の街に約4日間(そこにも観劇目的で行った)。その間、17本の芝居と、日本ではまだ観られない映画も何本か観ることが出来、俳優ワークショップに一日参加した。
楽しかったので、次はニューヨークで同じような観劇ひとり旅をしたいと思っている。

で、イギリスのときは一日に2本、劇場をハシゴして観ていた。でも、本当なら一日1本がいいのだと思う。
芝居を集中して観るのには体力が要るから疲れるし、観た後いろいろと考えをまとめる(余韻に浸る)時間が欲しいから。
たまに、自分の出る芝居を観に来てくれる知り合いに、「面白かったけど、観ているこっちまで疲れた」と言われることがある。そういう人にはありがとうと感謝したい。だってそれは強く集中して観てくれていたということなのだから。

しかも今回の場合は、観劇と観劇の間が移動時間も含めて1時間しかなかったことに加えて、2本観劇後にまだ別の用事が残っていたものだから余計くたびれた。もう余韻もへったくれもあったもんじゃない。
これなら自分が2回公演に出演する方が楽かもしれないと言ったら大袈裟すぎるかな。
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映画『不都合な真実』は、その作品内容や温暖化の要因等には反論や異論もあるようだが、多くの人たちに警鐘を鳴らし、より多くの議論の場を生んだという点で評価すべき作品だと思う。
様々な利害関係や憶測はともあれ、地球の未来について各々が考え、やれるべきことをやるに越したことはないでしょう。

僕も省エネには自分なりに気をつけているつもりだ(前の倹約の話とも少々重なるが)。
たとえば暗くなっても、必要最小限の明かりしか点けないようにしている。
舞台をやるため暗闇に慣れているからかどうかはわからないが、家の中ならたとえ真っ暗でもけっこう何とかなる。
まあ、ごくたまに床に置いてあるものを蹴っ飛ばしたり、開いていると思ったドアに体当たりをかましたりすることもあるが。
昨日の夜も、横開きの戸が開いていると思って進んだら半開き状態だったようで、思いきりおでこをぶつけた。深夜の我が家にいい音が響いた。ちょっとだけ瘤になった。

と書いていて、そういえば以前、舞台の本番中に暗いところで扉に衝突したことを思い出した。『身毒丸』の、確か新潟公演だったと思う。
あの舞台は暗闇を効果的に使ったヴィジュアルが素晴らしく、僕も一度客席から観てみたいのだが、幕や壁のない舞台美術であるため、通常の芝居よりも舞台袖を暗くしていた。
で、楽屋廊下から舞台袖に向かうには、片方だけ開放されている両開きの扉を抜けるのだが、それが二重扉だと知らずに(或いは忘れていて)ひとつめの扉(廊下の壁同様、白色だった)を抜け、暗闇の中でふたつめの扉(こちらは黒だった)に、ばかーん! と顔面を激突させた。
目の上を少し切ってしまったのだが、血が垂れてくることはなかったし、僅かな切り傷や腫れなどまるで目立たせないようなメイクと衣裳(ぶつけた時はバレリーナの格好をしていた)だったので、問題なかった。
その後、制作さんには病院に連れて行ってもらうなど迷惑をかけた。ありがとうございました。
舞台をチェックするためその晩新潟入りした演出家にもこのことが伝わり、「馬鹿だな〜」と笑われた。
それもいまとなってはいい思い出である。

……あれ、じゃ結局、暗闇に弱いってことじゃないのか?

ところで僕は、オゾン層が再生に向かっているということをこれまで知らなかった。
オゾン層破壊について大きく取り上げられるようになったのは僕が小学生の頃からだったように思うのだが、それ以降フロンガスを規制するようになったのが功を奏し、現在は、まだまだ安心のできるレベルではないものの、少しずつ再生しているのだそうだ。
そういえばリサイクルはいまや当たり前のこととなった。
こういうことに対して安易に楽観視してはいけないが、改善していくこともあり得るのだ。ひとりひとりが意識するようになれば。
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僕はけっこう節約家だ。いや、正確に言うと、いざというときお金を使えるよう、普段は出し惜しみしている。芝居を観るのはお金がかかるしね。

表で、ひとりで、昼ご飯、というときは、たいていコンビニで菓子パンを2つくらい買って、それで済ませていることが多い。
稽古場でもそうしていたら、「今日もパン?」「ホントにパンが好きなんだね」と言われ、「神保といえばパン、パンといえば神保」との評判を上げるまでに到ったが、菓子パンなのは好きだからというよりも、甘い物の方が手っ取り早くエネルギーになるから。

朝ごはん
だが、朝のシリアルは別。朝ご飯はシリアルのときが多いのだが、カルビーフルーツグラノーラに明治おいしい牛乳と決めている。
どちらも平均的なシリアルや牛乳の値段より高いものだが、この組み合わせだけはなぜか譲れない。だっておいしいんだもん。


ところで2年前から、芝居の稽古期間中に限って菓子パン生活をやめ、おにぎりを作っていくようになった。
稽古は通常約1ヶ月。毎日コンビニで昼ご飯を買うとけっこう馬鹿にならない金額になってしまうし、その間は、朝起きて昼から稽古で夜には帰る、という規則正しい生活になる。じゃあ毎朝お弁当を作っていこう、ということになったのである。
といっても、本当におにぎりだけ。なんのおかずもなし。しかも毎日。
なので、稽古が終盤に差し掛かる頃には、「さあお昼でも食べるか、って何だよ今日もおにぎりかよー!」とひとりボケツッコミを入れ始める。

おにぎりへの我慢が限界に達した頃に劇場に移り、公演が始まる。そうなると、おにぎりはおしまい。昼公演でも夜公演でも、コンビニや食料品街で何か買って食べる。
なぜ公演中にはお弁当を作らないのかというと、自分で作ったおにぎりには食欲が湧かないどころかもはや拒否反応を示すまでになっているということもあるが、それよりは気分的なものだと思う。
これからお客様の前で芝居をするのだから、手製のおにぎりとかじゃなくて、もっと景気よくいこうじゃないか! というやつだ。
まあ、それに加えて、舞台を観にいらした、いろいろな方々のお知り合いからの差し入れによって、いつにも増して充実する楽屋のケータリングを当てにしていなくもないんだけども。
ところで芝居の前の食事は、演る側のときも観る側のときも、按配が厄介だ。あまり食べてもよくないし、かといって食べないのも集中力が落ちてよくない。その日の体調や食欲も関係してくるし、難しい。たまに失敗しています。
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高校で演劇部に入り、演劇の世界に初めて触れた頃は、とにかくいろんな芝居を観たいし、特にプロの芝居が創られる現場がどういうものなのか、すごく興味があった。
可能な限り劇場に足を運んだし、テレビで劇場中継や稽古場の様子やインタビューなんかがちょっとでも放送されるとなると、録画して繰り返し見ていた。

その中で、1997年の『身毒丸』ロンドン公演を密着取材した番組を深夜に放送していたのをたまたま見た。その公演は藤原竜也くんのデビュー作で、「すごいな、こういう人といつか一緒の舞台に立てたらいいな」と思ったのを覚えている。でもそれはただの妄想のようなものだった。
その番組は1998年の凱旋公演の宣伝も兼ねていたのだが、僕はその公演は観ていない。
それから4年後の2002年、『身毒丸』の再々演に僕は出演した。

また、「80年代演劇大全集」という、当時の様々な舞台の映像記録とその創り手たちのインタビューを流す深夜番組があって、よく見ていた。
1986年上演版の『タンゴ・冬の終わりに』が取り上げられた回も見ている(その放送も確か1998年だったと思う)。
当時の僕には難解な作品で、芝居の細かいところは忘れてしまったが、冒頭の幻の観客たちのシーンは強く印象に残っていた。大勢の若者が一斉にスローモーションになることも、バックに『蛹化の女』が流れていたこともちゃんと覚えている。
2006年、国内では20年ぶりとなる再演、僕はそのシーンでの観客の一人を演じた。

台本
昔テレビで見た舞台に自分が出ているのは何だか妙な感じだった。
別に運命と呼べるほど大層なことでもなければ、「目標達成」でも「夢は叶う」でもない。当時はまだ演劇界に入りたいとも入れるとも思っていなかった。
とどのつまりは、不思議な巡り合わせによってたまたまそういうことになっただけで、こういうことってあるんだなあ、という僕なりの体験である。

演劇はやはり生で観るべきものであり、映像にした舞台作品はあくまで副次的なものだと僕は思っているが、それでも、かつての僕がそうだったように、映像で作品を初見する人にも強い印象を残すこともある。そんな形での出会いもあっていいのかもしれない。
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『ファミリー・タイズ』というアメリカのSitcom(シットコム)をご存知だろうか。本国で圧倒的な視聴率を獲得し、日本では80年代半ばごろテレビ東京系で放送されていた番組だ(いまでもケーブルチャンネルでは再放送しているらしい)。
子どもの頃(7、8歳くらいだったと思う)、大好きで毎週見ていたから、出演者たち、特にマイケル・J・フォックス(これが出世作となった)の演技には無意識のうちにかなり影響を受けたはずだ。

その『ファミリー・タイズ』がアメリカで遂にDVD発売された。しかも日本未放送のシーズン1。日本版の発売を待っていられないから早速米版を取り寄せた。Family Ties
見たら、やはりフォックスの間やタイミングのとり方、緩急や誇張の按配、役自身は真剣に悩んだり葛藤したりする行為を、リアルでもあり愉快でもある演技で見せるやり方など、改めて役者としての自分への影響の強さを実感した。

Sitcomといえば観客の笑い声がバックに聞こえるが、あれは観客の前でライヴで演じ、その笑い声も含めて収録するという形で作られているから。そのため、映像での作品なんだけど、そのリアリティや演技は舞台のそれに近い。舞台役者として、子どもの頃から良い教材に出会っていたといえる。
1話が約25分だから、ちょっとした時間で楽しめるし、参考にもなる。早く次シーズンも発売されないかな〜。
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このブログを立ち上げて2週間。質や内容はこの際無視して、少なくとも僕は、文章を書くのは好きな様である。
しかし書いていて自分で思うのだが、どうもこのブログにおける僕の文章は堅い、というか、どこかしら親しみにくいものがある。
それに長い。なんかやたらと長い。「長い」と書きたいのに3回連続でまず「永井」と変換されるのはどうしてだ。僕の知り合いに「長い」さん、じゃなかった、「永井」さんはいないのに(ここでやっと「長い」が最初に出てきた)。
前回の投稿で、原稿用紙にして4枚分くらいの文章を書いてしまったときはさすがに校正したが、それでも3枚分にしかならなかった。
別に誰に要求されたわけでもなく、自分にノルマを課しているわけでもなく、好きに書いてこの長さだから個人的には問題ないのだが、読む方にしてみれば厄介なものだろう。

参考のためにいま一度、以前一緒にお仕事したことのある、いわゆる有名人の方達のブログを覗かせていただくと、おや、その方の日々の断片が、親近感の湧く、砕けた感じの文章で綴られ、時には写真や絵文字も織り込まれ、彩られているではないか、あたかもブログが画面上で小躍りでもしているかのように生き生きしている。
では、いわゆる芸能事に関わっていない方々のブログはどうかというと、おっと、これまた何だかこちらまでうきうきしてくるような文章や、写真や、時には絵文字が目に飛び込んでくる。

これが、自分に出来るのか……?

いえね、写真はそりゃいまのところはないけど、そのうちに何か撮ったりして、載せてみようとは思っていますよ。
でも現時点では特に名の知られていない、いち役者が、というか僕が、おいしいお菓子を食べました! とか、今日はいい陽気なので散歩に出たら、こんな花が! とか、はたまた、このマンガが! このゲームが! このファッションが! とか、書いても、別にだからそれが何だよっていうことはないですか? え、ありですか? そうですか……じゃあ、そういうのも自分なりにやってみます。
ただ絵文字は使わなくてもいいですよね。自分としてはむしろ文字だけの方が楽なので。

あ、念のためお断りしておきますが、僕は決して他の方々のブログを非難しているわけでも、小馬鹿にしているわけでもありません。僕個人がブログをやるにあたっての趣味嗜好の問題です。

ということで、これからはですね、ちょこっと真面目なことを「である」調で書くときもあれば、どーでもいいようなことをざっくばらんに喋り言葉っぽく書くときもある、という風に、もうちょっとヴァリエーションをつけてですね、やっていこうかなと思います。
と書いてるこの文章も原稿用紙にして3枚分になってしまいました。誰に迷惑かけるわけでもないですけど、あいすみません。
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当たり前といえば当たり前のことだが、ちょくちょく芝居を観ている。毎年少なくとも20本以上は観ている(映画も、同じくらいの本数を映画館で観ている)。数えたら2006年は27本の芝居を観た。金銭的余裕がもっとあれば、本数を増やせるのだが……。

芝居を観始めたのは高校の演劇部に入ってからだが、その頃は、その時その場所に集まった人達だけが共有する、実演の醍醐味にすっかり魅了されていた。芝居が終わり役者も退場した空の舞台を見ながら、あの劇的な時間はひょっとしたら幻だったんじゃないかと感じたものだ。
しかし観劇を重ねるうちにそういった原初的な感動は薄れていき、自分がプロの舞台に出るようになったこともあり、もはや完全な観客としての見方は出来なくなってしまったように思う。もちろん今でも観劇が好きだから行くのだが、リサーチの要素が強くなっている。
高校生の頃から、見る目を養うことで自分の芝居も向上する、という意識がどこかにあったし、見巧者になっていくというのはそういうことかもしれないが、それはそれでちょっとさみしいものである。

観劇に何を求めるかは人それぞれだろう。感動したいから、泣きたいから、笑いたいから、あの俳優が、あの演出が観たいから。
で、僕の場合は、総毛立つ瞬間を味わいたいから。
これは、感動する、や、興奮する、とはちょっと違う気がする。
どんなタイプの作風でも、どんな形での感動、刺激、衝撃でもいい。もの凄く劇的な演出や演技だから総毛立つ場合もあるし、何気ないシーンの中で役者が発した、ある台詞に総毛立つこともある。鳥肌が立つくらいおかしくて笑える、ということもある。
もちろん自分が芝居をする側のときは、そういう瞬間を味わう人がいてくれたらいいな、と思っている。
ところで、演劇は他のメディアに比べて、総毛立つ割合が多いような気がする。これは演劇が、観る側により多くのエネルギーを要求することと関係あると思うのだが、それはまた別の機会に考えよう。

で、今回はどうしてこんな話になったかというと、確定申告の季節なので、必要経費としての研究費(観劇費)を整理していたからだけなのでした。
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